★おいらのプロフィール3★



★2ページ目からの続き★

3.「3ケ月間の試用期間」中に、裏が白紙の会社の広告用チラシの裏面を利用して、「月間不動産新聞」というのを、会社のコピー機で作りました。内容は不動産の用語の解説・取引の注意点・住宅ローンの金利とかです。これを、自分のワープロに入力しておいたお客さんにDMで月1回送りました。郵送料&ラベル用紙は自腹です。( ̄▽ ̄; 「役人出身に営業なんて出来ない!」と面接で言われたこともあって、朝6時に「不動産を買いたい」と言ってた人の家の前で待ってて、出勤前の旦那に物件の図面を渡して「これ、見ておいて下さい!良ければ次の日曜にご案内します!」夜9時頃また、お客が帰宅する頃を狙って「こんばんわ〜。この前お渡した図面の物件どうでした〜」とか。。夜討ち・朝駆け。しかも、自分で妙なプライドがあって、「成績上がるまで残業はつけない!」と勝手に自己評価(他人に評価されるの嫌いだったかも?)で、やってました。しかも、営業所に会社の車(当然、同じグループのギャランだった)は2台!千葉県では、津田沼は中核店だったので、他の店舗が扱わない物件は全部担当します。当然、山の中の一軒家とかもあるので、車無しでは無理!自分の車を持ってきて、駐車場(当時、1日2000円というところがあった)に止めたり、ガソリン代も自腹です。で、休みの日は、朝一で、お客の家にTEL。「今日あたり、家でも見に行きませんか〜」と聞いて、断られたら休む。「いいよ〜。見に行くか〜」と言われたら、会社の上司にTELして「今日、案内が入ったので、出勤します!」大体は休日出勤手当てではなく、代休になります。←営業時代は週2日の休みを取りきれず、代休が年に20日以上溜まっていた。で、予定が無く、休み決定の時は、初日買い物。2日目は千葉県内ドライブ。3ケ月間で、ほぼ、房総半島はくまなく回りました。「何町のどこ」って聞いて「あ〜、あそこは、低い土地で、水に浸かりやすいね〜」とか分かって来るようになりました。その間、「不動産業界は千3つ」(千の内3つくらいしかお客に本当のことを言わない営業が多い)とか「トラブル業界」(お客とのトラブルがあって当たり前という多い)とか先輩社員から聞いて、おいらは「うそを付かない、全部不動産のいいとこ・悪いとこ、ぶっちゃけて、お客へはアドバイザーというスタイルで行こう!」と思いました。
というような、結果。3ケ月間で「売主」(売りの媒介契約を取った)5人、買主1人(これは、OJTとして、契約〜残金決済〜物件の引渡しまでの、書類の作り方や物件調査の仕方、説明の仕方、手続きの仕方などを、憶えるため、先輩がお客をクロージングした案件に同行させてもらって、成績数字として0.5貰ったもの)の成績でしたが、4月の辞令で主任に昇進しました。(^0^)vなんでも、三菱グループ内でも前例が無い早さだそうで。。びっくりでした。
ちょっと、給料上がって、助かりました。。。
4.さて、’91年4月〜’92年3月までは、こんな感じで、房総半島ほとんど全域を営業して廻っていました。ぼちぼち、自分のお客さんデーターも100人を超え、切手代だけで8,000円。でも、成績も少しずつ上がってきたし、色々な人とお客として知り合いになったり、 例えば、戦時中ダイエーの中内氏(故人)と戦友だったという配管屋のおっちゃんとか、先輩がどうしても売れなかった成田の一戸建て(どんな買主が現れても断ってしまうおばちゃん売主だった)を、こまめに寄って話しを聞くうち、「死んだ旦那との初デートした鎌倉に住み替えたいけど、高いに決まってるから。。」という本音を聞きだして、自社は鎌倉に営業所が無いので、住友不動産にTELしたら、「4000万なら買い手さん付くんですか?3000万円台で幾らでも物件あります!そのお客さんの買い替え先はこっちでやらせて下さい!」おばちゃん、実際に鎌倉に見に行ったら「4000万で売ります!」この後も「小切手(銀行で預金を持ってるとその金額分は預金小切手・預手を振りだしてくれる。普通現金を持ち歩くと危ないので、不動産の取引は個人でも小切手で売買する)なんか見たこと無い!現金じゃなきゃ嫌じゃ〜!」とだだこねて、買主さんに「キャッシュで頼めますか〜?」と無理を言って、現金4000万、しかも、普通は銀行の会議室とかで、お金の受け渡しをするのに、現地で決済!住友の若い担当に言ったら「え”〜。現金4000万持っておばさん電車で鎌倉へ〜。やばいっす。護衛に始発で成田行きます!」結構、面倒な取引でしたが、決まりました(^0^)v 「営業」としても「効率よく動くようになった」というか、お客さんが家にいる時間帯・早朝か夜・休日以外は、他の業者の物件を見がてら、外でぷらぷらゲームセンターで遊んだり、余裕出てきました(営業は成績が全てなので、売れないと色々言われますが、売れてれば結構、好きにさせてもらえる)
5.本来、営業の現場を志願したのも、会社のイベント・商品企画・販促グッズの企画とかやりたかったのですが(コンパニオンのねーさんと仲良くなれるかも?という淡い期待も?)、「中級社員研修」(5日間泊り込みで、パソコンで、バーチャル会社の経営をするという研修)で、税理士・公認会計士の資格者で固めた経理班を抜いて、おいらが指揮を取った「営業班」が逆転トップ!講師の先生が「こんな、経営手法があったとは!勉強させてもらい貰いました!」深ぶかとお辞儀されてしまって「営業戦略の天才だ〜!」とか言われたり、会社の「宿題」(盆・暮れの休みにレポート提出の宿題がある・・不動産業界の学校という異名を取ってるだけのことはあります)で、お盆の時が「間接経費は経費全体の20%以下にしないと会社は赤字になる」というレポート、で、暮れ〜正月休みの時が「太陽活動と景気変動の相関関係」(経済分野でUP済み)というレポートを出したんですが、これが、本社の専務(一橋大をトップで出たけど、一介の営業・地上げから叩き上げたという人、市川〜船橋の住宅地は大体この専務が昭和40年代に宅地開発した)の目に止まって「て、天才だ〜!本社で研究を続けてもらいたい!」と言われてしまったそうで、本社に営業所員のレポートを持っていった店長(一応、階級としては部次長だった)が、きょとんとして、「あのさ、専務があんたのレポート見て天才って言ってたけど、俺にはさっぱりわからん?」(@_@)といってました。。本社に異動させられそうですが。。
6.この期間にあったやばいこと。。あまり無かったけど、先輩が海釣りが好きで、付き合い上千葉・勝浦から漁船(70歳過ぎたので、漁師を辞めて釣り船屋をやってた爺さん)で、外房沖50KMくらいのとこにある「ドブ」という日本海溝の溝が入り込んでるとこまで釣りに行ってましたが、低気圧が来てる時行って、高さ10Mを超える波を経験しました。波が壁になって船べりから手を出すと、水の壁に触れる( ̄▽ ̄;ジェット・コースター状態で、釣りにならず、その日は断念!でも、台風が来ると本まぐろ取りに出漁してたという爺さんなので、腕は良かったです。後は、台風来てる時、房総の山の中の一軒家のお客に呼ばれたとき崖からの鉄砲水(崖の中ほどから、消防ホースから水が噴出すような勢いで、何本もの水が100Mくらいの区間出てた)で、おいらの車が崖下に流されそうになったくらいでふ。割りに平穏だったかも?ただ、「ノルマ」というストレスは抱えてましたが。
7.'92年4月〜'94年6月まで
本社の流通企画部(後に業務企画部に改称)に異動しました。千葉市のアパートから、津田沼までは、駅までチャリで行くのを含めて電車で45分くらいで近かったのですが、今度は三田本社(当時は事務上の本社が三田、登記上の本社が丸の内だった)なんと、港区役所時代研修をやった建物の隣です( ̄▽ ̄;ちょっと、知ってる人とすれ違うこともあって、バツが悪い気もしました。で、この部の中には、販促課?だったかな?と業務課?(名前忘れた!)2つあって、販促グッズとかを作ってる課に配属と思いきや、契約書等のチェック・保存・社内オンラインのメンテ・予算管理・各出先の業務監査・システムの開発・トラブルシューティングとかしてる、男は全員主任で課長は部次長が兼務。部長を挟んで次長の席が2つ並んでいるという部署で、じみ〜(^^;。一般職の女性陣は三菱グループのどっかの会社の取締役のお嬢さんが縁故で勤めてる関係上、課長クラスとかで、出世したい人は、女性にヘイコラという感じで。。なんだかな〜(・・)
8.おいらがとりあえず担当したのが、契約書・重要事項説明書のチェック・月報(週報は女性がやってたけど、月報は月〆の関係で、当月の売り上げにするか、翌月にするか、現場の責任者とやりあったりすることもあるので、一応主任の肩書きが無いと。。という感じです)データー更新(作業は電算課の特殊情報処理技術者資格を持った人がするけど、主管課として、エラーが無かったか確認して、判を押すだけ。。エラーが出たら、2時・3時まで、ただ、SEの作業が済むのを待つだけの仕事)・建設省(当時)の外郭団体に関東地方の地価を報告する(月1)・電機さんと共同で開発してた「不動産査定システム」(ノートパソに、物件の面積・場所・築年数・構造とかを入れると、お客の目の前で{この中古住宅は0000円です}とか出るソフト)の開発で、パソコンに入れたデーターと同じデーターでおいらが査定して、出した価格(一応社内で、不動産の値段を決めさせたら、プロと言われてた)と、パソの価格と開きが大きければ、パソの負け!パラメーターの修正を三菱電機の技術者がその度にやるというもので。。おいらがいる間には完成しなかったけど。。(・・)ま、契約書類のチェック(これは、ミスを見逃すと大変なことになる!)以外は雑用みたいなもんでした。。
9.人間関係的には、異動したとたん、(−−)冷たい視線。しかも、部長クラスも怒られると泣いてしまうという鬼専務が、時々おいらの傍に来ては「ここの人は優しいですか?研究頑張って下さい」ほとんど、猫なで声で、声をかけてくれますが。。サラリーマン社会の常として、こういう風に「出る杭」になった奴は、周りから干されるんですにゃ〜。「やばい、パターンに入ってしまった!」と思いました。

★ここでちょっと一服・親との人間関係が仕事が長続きしない原因の一つだった(^^;★

え〜、おいらの親父は、子供時代は典型的な「寺内貫太郎型親父」で頭にくると、おいらの腹に蹴りを入れたりするような親父でしたが、基本的には、「生きるというのはどういうことか」というのを、無言で、子供に教えてるような面もある良い親父でした。(^0^)「お前が総本家の頭領じゃ〜」と教育してきたのです。ところが、おいらが、21才の時先祖の墓・氏神のある茨城県坂東市(旧岩井市)に強引に母親を連れて、引っ越してしまいました。おいらは、「先祖が滅んだ町に引っ越すなんてとんでもない!!」と大反対したのですが、「お前に俺の気持ちが分かってたまるか!!」と「聞く耳持たず」という感じでした。ヽ(’’)これには、訳がありまして、元々、おいらの父方の先祖は、室町〜江戸時代にかけて、この旧岩井市の南半分(数万石)を持つ地侍でした。おいらの苗字の「総本家」らしいですが、長野県にも、「戸隠流忍術宗家」で同じ苗字の人がいまして、どっちが、本家なのかはわからんです。(^^;その頃は、自分の家専用の寺を持っていたらしいです。江戸時代になってから、侍階級ではなく、百姓階級として名主になり(実際には自分の田んぼから取れる米で酒を造っていた造り酒屋だった)、代々嫡流は「孫右衛門、孫兵衛、孫左衛門」など「孫」の付く名前を名乗ることになってまして、親父も「孫明」と言います。で、江戸時代、この町が利根川の氾濫で、「年貢を払ったら村ごと飢え死にする!」という事態になった時、藩主(関宿藩・久世家)に命がけで交渉して、「年貢を10年免除する」という許しを得て、村を救ったのですが、その数代後に目の不自由な当主の時、「働けないので田畑を切り売りしてしのごう」としたところ、村人にニセ金を渡されて土地を取られ、そのご先祖は憤死。その後、バクチのカタに土地を取られたりして、親父が子供の時には、ほとんど滅亡状態でした。(^^;さらに、親父が小学生の時、満州事変で祖父が戦死。祖母は、親父を捨てて他へ再婚(戦死した祖父に親父が似ているので、弟は連れていくけど、お前は連れてかないと言われたとのこと)。親父のさらに祖父が、一人で古い着物を縫い直して、着物を作ってくれたりしたけど、とても、恥ずかしくて着られるようなものではなかったらしいです。そのころ、通ってた七郷尋常小学校で同級生から「親父に戦死されて貧乏人になった!!」といじめられて、毎日悔し涙にくれていたそうです。その後、住吉系のやくざもんになったのですが、「こんなことしてたらいけない!」と思い、唯一残った屋敷(3000坪くらいかな?)を売って、その金を持って、終戦後、東京に出て働き、おいらの母と見合いで結婚し、小さな工場を経営するに至りました。。それで、「末っ子のおいらも20才を越えたし、工場は長女に婿養子を迎えて跡をついでもらったし」、ということで、「昔の屋敷には及ばないまでも、少しは豪勢な家(最初は金のしゃちほこを屋根に付けていた)を建てて見返してやりたい!!」と思って引っ越しました。ところが、それから、段々親父の考え方が、変わっていってしまったのです。( ̄▽ ̄;
で、学生時代から、何かと、どうでも良いような用事を思いついては(工場の経費で、ガソリンを20L買って持って来いとか)茨城においらを呼びつけてたのですが、これが、役所に勤めはじめてからも続きまして(^^;出勤日の朝5時頃に電話が来て「お前に来てもらわなくては、困るんだ〜!」と言うのですが、「仕事だから、突然休みを取るのはだめだよ」というと、母親に変わって「父ちゃんは、家族の暖かさを知らないで育った人だから、言うこと聞いてやっておくれよ〜」泣き落としです。。で、仕事先に電話入れて風邪とか、親が具合が悪いとか適当な理由をつけて休む→段々、仕事で「当てにならない奴」と思われる→いずらくなる。というのが、次のツーリストの時まで続きました。そうやって、茨城に呼ばれたあるとき、「仕事忙しくて、1ケ月家に帰れなかったよ!」っておいらが言ったら、親父が「仕事なんぞ、適当にやってればいいんだ!お前が出世でもして、俺に何かあったらどうしてくれる!」(・◇・)唖然。息子としてはねぎらいの言葉くらい期待していたのですが。。親父も中小企業の経営をしていたんだから、突然休む奴が仕事で当てにされなくなる くらいは分かるはずなんですが?どうも、茨城に住むようになってから、「子孫が仕事出世すると親は死ぬ」とか「子孫を犠牲にすると長生きできる」とか思い込んでしまったらしいです。ψ( ̄▽ ̄;)グゲゲ敵は家族にもいたか〜!!