★管理人「おいら」のプロフィール★



*このプロフィールに書いたおいらの人生は全て事実と実体験に基づくものです。嘘・ゴマカシはないです。もちろん、おいらが見聞きし、経験したことなので、他人からみるとまた別の見方が出切るかもしれませんが。。
★人生の始まり★

1.1958年5月16日東京の下町で、茨城出身の鉄工所(零細企業・従業員3人〜15人)の経営者の親父と千葉生まれの親を持つ下町生まれの母との間に生まれる。1歳の頃、ようやくしゃべれるようになったときの第一声が、近所のおばちゃんの家に行って、仏壇の仏像を拝んでいるおばちゃんに「俺より尊いものはない!拝むのなら俺を拝め!」といってびっくりさせた(らしい?後で、そのおばちゃんに5才ころ、そう言ったと聞かせられた)
2.1才と1ケ月のとき風邪を引く。いつものお医者が学会に出席のため休みで、やむをえずインターンを終わってすぐに開業した若い医者の診療所に行った。左のおしりに注射をされたが、間違えて足の神経を針で刺されてしまう!!お尻が腫れ上がり、一晩中泣き止まないため、翌日文句を親が言いに行くがとり合ってくれない。で、いつものかかりつけのお医者が出張から帰ったので、診せたら「明らかな注射ミス」と言われたが、「医者仲間を告発はしずらい」と言われ、ポリオ(小児マヒ)が流行ってたため、「医療費の補助があるから」と「小児マヒ」の診断書を書いてくれ、大病院に週一でリハビリに通う。一時良くなるが、5才くらいのとき「おたふく風邪」にかかって直ったら、左足に力が入らず。以来左足が不自由なまま人生を送ることに(^^;
3.本を読んで知識を得るのが無上の快感になり、3才から図書館に通いつめ、1日20冊くらい本を読み出す。6歳くらいのとき親に何してんの?ときかれ、「ケプラーの第3法則を応用して地球の重さを計算してるの」φ(_ _)変な子供だった。。。私立の高い幼稚園に入れてもらうが「お遊戯しまちょう。はい1+1は〜」とかやってるの見て「なんで今更おいらがこんなことを??」と思い「馬鹿くさい辞める!」と一日で辞めてしまう。
4.この頃、2回ほどお風呂に一人で入ってて湯船に転落、溺れそうになる。母の母親(つまりばあさん)が気づいて、引っ張りあげて貰って助かる!1,2回目の死ぬとこ体験お子さんがお風呂に一人で入ったときは気をつけてあげて下さい

★波乱の小学校生活のスタート★

1.7才の4月から普通に皆と小学校に行けると思ってたが、念のため親が前年の秋に教育委員会に確認に行ったら「障害者は迷惑だから、障害者施設に行ってくれ」と言われる!子供心に憤慨!親に教育委員会に連れてって貰い「左足が不自由な以外、普通の子供と変わりません!」と主張、教育委員会のおじさんたち「先生に迷惑を掛けないと誓うなら、入れてあげよう」と言われる。「子供に勉強を教えたり、世話を焼くのが小学校の先生の仕事だ。このおじさんたちは自分達の仕事が分かっていない。馬鹿なんだ」と思う。
2.小学校に入って早速、同級生数十人に「びっこ!やーい!」と校庭で石を投げられる。この人数相手に喧嘩しても勝てないと思い、逆ににっこり笑って「おまえら、それで終わりかよ!」と言ってやったら、石投げた子の方が泣き出して校舎に戻る。翌日、首謀者が分かり、校庭で首に腕を巻きつけ気絶させた。幸い大事には至らず(柔道でいう「落ちた」状態)他の子が「その子の方が悪い」と言ってくれたので、別に何事もなく、それ以来学校でいじめられなくなる。それ以来、「自分の社会での居場所は人がくれるのではなく。自分で確保するんだ」と思うようになる。
3.この頃、親父も溶接の火で顔面大火傷したり、機械で指2本飛ばされたりしたが、一切子供の前では泣き言を言わず「がっはは!やっちまったい!」と豪快に笑い飛ばしてた。子供心に「親父は凄いな」と思う。「男とか人間の生き様」とかを身をもって教えてくれてたと思う。
4.小学校に毎日通学するだけで、左足がもたず、皮膚が裂けて運動靴の中で血が溜まって、歩くたびに激痛が走ったり「グチュグチュ」靴の中で血が音を立て、学校の下駄箱について上履きに履き替える時、床に血がポタポタ垂れるという「地獄のような日々」を送る。でも、親父のことを思い出して、自分で普通の学校に強引に入ったんだからと、こっそり垂れた血をティッシュで拭いたり、持参の包帯でトイレで治療したりして、人前では「ニコニコ明るい子」で通す。この頃から親に遠足に付いて来られるのを嫌がるようになる。「ガキじゃあるまいし」とか小2のガキのくせに思ってた。
5.同級生のいじめは無くなったものの、若い体育の先生から毎日「お前のような障害者は学校にくるな!」といびられる。何かアピールしないと、と思う。「運動会」で50m走にこっそり紛れ込む。「先生に叱られるよ〜」という同級生に「し〜」と言って、出場!見事にビリになる。でもそのおかげで、「自分の存在」を他の父兄にアピール出来、PTAのうるさ型が子供たちから学校でおいらがどんな扱いをされているか調べ、「その先生はひどい!」と抗議してくれ、「いじめ先生」はどっかに異動させられた。良かったε=( ̄。 ̄)
6.5年生の時、隣の区に親父が工場を建てたので、引越し&転校。ちょうど、アポロの月着陸を放送してる時だった。
7.6年生の時、マルクス・エンゲルスの「共産党宣言」&「資本論」読む。日教組バリバリの先生が「理想の社会」として共産主義を授業で語ったので、「1.人間には人より良くなりたいという欲がある。バリバリ働いている人と怠けている人が皆公務員で同じ収入だったら、やる気のある人もやる気なくす。2.日本では(生産手段)畑、田、工場などを国有化しても、国民全員を養えない(自給自足できない)」「よって共産国はいずれ崩壊する」と論破!一応、その後のソ連崩壊とか見ると当たりかも(@_@)
8.この頃、東大の神経外科の権威というお医者に「左足の手術」を勧められる。親には「自分の問題だから一人で話す」と言い、お医者の話を聞きに行く。お医者の話では「神経を一つずつ繋ぎなおして見る。駄目なら何度もやり直す。お金は何百万かかるか分からん。成功の確率は1%もない」というものだった。「それって、電線の何処が切れてるか分かんないから、適当に繋ぎ直してみるのと同じ?」と聞いたら「その通り!」という話だったので費用対効果を考え「手術はしません。このまま頑張ります」と決断する。

★都内でビリの中学へ進学★

1.引っ越した先の区で、近くの区立中学校に入った。ここが都内でビリ争ってるという曰く付きの不良校!全校生徒320人くらいで、警察に補導された経歴者180人以上。学校にドス持ってくのが「あたりまえ」という学校!ここでの「居場所」を確保するため、こっちも「つっぱり」になる。煙草もこの頃吸い始める。年1回は「大爆発」を演じてみせ、教室の中の机や椅子を全部外に叩きつけたりした。。。おかげで、いじめられなかった(-^○^-)
2.この学校の先生たちも凄かった。元特攻隊という数学の先生、どっかのチンピラが日本刀持って乗り込んできたとき「なんだ!貴様ら〜」と怒鳴ったら5人いたチンピラがその場で小便漏らして動けなくなったり、車の事故で左の胸のあばら骨が3本突き刺さったまま、「授業に穴は開けられん」と血の痰を吐きながら、授業してた。←生徒には優しかった。また、東京オリンピックの柔道の候補だった先生、悪さをすると本気で一本背負い!足払いだけで中学生なんか骨折!でもあの頃の親たちは「家のガキが悪い」と問題にもしてなかった。←この人も普段は冗談好きな面白い先生。 その他、剣道部顧問で本物の日本刀を学校に持ってくる居合いの達人の先生とか。まあ、凄かった。でも生徒に対する愛情とかも凄かったけど。
3.中3の時、受験勉強に疲れるとチャリで海岸(東京湾)まで散歩に行ってたが、ある日路地から出たとたんライトバンに轢かれる。大体40km位のスピードで走ってた車、自転車に当たる瞬間、自分以外スローモーションでゆっくりコマ落としのように見えた??自転車の前輪にバンパーが当って前輪が歪んでいくのが30秒くらいに感じた!そこで、両手をボンネットにバン!と勢い良く付いて、足で自転車を蹴っ飛ばし、頭を手でガードして車の屋根の上を転がって、後ろに落ち、シュタ!と立ったけど、よろけて肘をすりむく。見ていたおじさんの話では「一瞬の出来事」だったらしいけど、おいらには5分くらいに感じた。きっと危機的状況で脳が1/1000秒くらいで、映像を処理して身体を動かしたんだと思う。3回目の危うく死ぬとこ体験でふ(^^;

★都内で中の上くらいの都立高に進学★

1.「教育のモデル校」に指定されてる学校だっただけに、先生達が「博士号」「修士号」を持ってたりして、レベルは高かった。自由な校風と相まって、都内で5番以内、全国模試で100番くらいの成績を取る。放送部をメインに美術部、生物部、地学部、化学部、フォークダンス同好会、生徒会役員(会計監査)、バンド活動(主にレッド・ツエペリンのコピーとか、おいらがボーカルのときはイーグルス(あの声が出たもんでホテルカルフォルニアとか)とかやってた。もう、むちゃくちゃ忙しい高校生活!でも格好は割りとつっぱってて、かばんの取っ手に「白テープ」巻いて(あの頃は喧嘩買いますという意味があった)中に鉄板仕込んでた。外ではつっぱり、家に帰ると明け方まで勉強!3時間睡眠で頑張る。
2.日教組の先生がストに行くのを、体育館に全校生徒を集めて「先生が労働者なら、生徒は客。生徒の教育を受ける権利の侵害だ」と吊るし上げる。←この頃共産主義嫌いだった。
3.この頃、古典・漢文が辞書なしで読め、古典の先生から宿題免除を言い渡される。女の古典の先生に「君は蘭相如(完璧の語源になった古代中国の英雄)みたい」とうるうるされる。。先生惚れちゃいけねい( ̄m ̄)ブブブ
4.早稲田法学部楽勝(偏差値大体70超えてた)のはずが、何処にも受からず(3年の12月までクラブ活動やってた)浪人決定!早稲田の隣の早稲田ゼミに行く。
5.文化祭で3年の時、クラスで8mm映画を作ることに。「放送部」で音響効果&脚本に知識&機材(グライコとか一本数万円するマイクを持ってた)があったおいらが、台本作り(あらすじはクラスメイト皆で作った)、音響効果、&役者(お医者役)とにかく卒業記念なので,クラス全員が出演できるよう脚色第は「太陽に向かって走れ!」最後、由比ガ浜を夕日に向かって、仲直りした2人が走って行くという50分の「クサイ青春ドラマ」ホンマモンの族やってるクラスの奴、主人公が族に入って傷害事件を起こすシーンで、ダボハン(650cc)ナナハン(750cc)での改造バイク30台集めて、暴走シーン取りました。ブブブ( ̄m ̄)。で、1ケ月家に帰らず学校や友達の家で編集作業!文化祭の前日にアップ。家に久々に帰って風呂に入ったら湯船につかったまま、寝てしまった。。「幾らお茶を飲んでも飲みきれない夢」を見てた。。2時間後、「ゲ!これは夢じゃない!」と気づき、起きたおかげで、溺れずに済む。4回目の「死ぬとこ」体験です(^^;

★浪人から大学時代(日本文化に目覚める)★

1.早稲田ゼミで浪人。ちょうどトイレが早稲田にしっこを引っ掛ける位置で、「自信を持たせよう」という粋な配慮かと思う。ただひたすら勉強の毎日。親父からは「大学に受からないと車の免許は取らせない」と言われてたので、足も相変わらずしんどかったので、「早く受かって車乗りたい」と必至こいてた。(^^; 各予備校の模試(受験料は親もち)を受けまくり、上位に入って賞金(5000円もらえた)を稼ぎまくった。→おこずかいへ。「賞金稼ぎ」と予備校仲間に言われる。
2.受験時期、さてこんどこそと思ったら、1月末からひどいインフル(40℃越え)ことごとく志望校落ちる(T T)最後に偏差値64くらいだった国学院(民俗学では有名だけど法学部は無名)の法学部に受かる。。岡倉天心の「茶の本」とか柳田邦男「一つ目小僧その他」などを読み狂い、「日本文化」に目覚めたのもこの頃。不本意だったけど浪人も飽きたので入学。当時親父が金魚(ランチュウ)を30個くらい池を作って飼ってたが、全国大会で優勝し100万の値がついたり、楠田恵理子が取材に来たりした。「親父、大学行く金あるの?」「ああ、金魚一匹売ってやろう」 50万程度の金魚を売ったお金で、大学の入学金払ってもらう。(・・)←金魚に大学行かせてもろた!
2.車の免許取る。親父が昭和47年型マークU6気筒有鉛ハイオク仕様ゴールドメタリック←ドハデ。知らない内にかっといてくれた。本当はセリカが欲しかったけど、文句言わずに乗ることに。。その後、高校時代のダチが次々に免許取ったため、ドライブクラブと化す。「暴走族」の連中と車をぶつけ合う「バトル」や「首都高一周何分」などということもやり始めた。ん?「ローリング族」のさきがけだったか?
3.法学部としては歴史が浅いだけに、東大や東北大の出身教授が多く、結構講義はハイレベルだった。「2流法学部だから勉強せねば!」と相変わらず明け方までお勉強!2年の時「宅建主任」を取る。
4.3年のとき民法ゼミ(家族法)に入る。教授に気に入られて、「博士号」を取って「研究室」の後を継がないかとか、2人娘のどっちか貰わんかとかヒソヒソ話としてあった。この頃から「正義の味方の弁護士」にあこがれる←まだ青臭い。東京銀行から青田刈が入るが、「細かい数字計算!ご勘弁を」と逃げる。。
5.趣味としては、相変わらずバンド活動&作詞。非公認団体「男の料理研究会」←単に食べ歩きをして、店でやかましく「だしは何だ」「スパイス何のブレンドだ」とかレシピを解明して、店の人にやな顔されるだけの集団。&桜美林のサークルに週一で通う。当時珍しかったビデオでシュールな映像を作ったりした。
6.さすがに、この頃になると足が不自由だということで変に差別感情を抱く人はいなくなる。世の中が進歩したんだにゃ。(^ω^)この頃出入りしている他の大学で「昭和の孔明」と云われる。「先生に握手をしていただいた」と感激されたり。。ん?
7.3年のとき、親父&母が「先祖の墓が!!」という理由で茨城にいえを建て引退。長女に養子を貰って工場の跡を継いでもらうことに。。東京では姉夫婦とおいらが同居。すぐに、つまらん用事で親父に茨城まで呼びつけられる生活に!!
8.体育の教授(ムーンサルトの発明者)から、大学のバトミントン部と試合(遊びだけど)で勝った時、「いい運動神経だ!足が悪くなければ、最低国体、下手すりゃオリンピック選手のレベルだ。惜しいね〜」と言われる。今まで、「足が悪いこと」が自分を鍛えたと思ってたので、ちょっと寂しくなる。
9.昭和57年3月(1982年)大学卒!司法試験を目指して素浪人生活へ。
10.この頃あったやばいこと!熱中症で倒れる←水飲んで回復。大事です「水」。対向車線から飛び出した車をよけるため、自分の車をスピンさせて、よける!!こんなにうまかったかな??(・・)お互い無傷でした。「5回目の死ぬとこ体験」でふ

★1982年から1986年まで司法試験浪人しながらのバイト生活★

1.最初は、データーの入力ミスがないかの「校正」の仕事。お昼休みにゆっくりしたい他の人に気を使って公園で、雨・雪でも傘さして「法律」のお勉強!さぶかった(==)
2.ある日、ダンボール箱5杯分のリストをもってこられ、「これ、どうしても走らないプログラム、もし変なとこ見つけたら教えて」とSEに頼まれる。中はマシン語(0.1の羅列)「うぎゃ!」と思いつつ見てたら600行に一回必ず出てくるパターン(プログラムは分かんない)があることに気づく。一応、赤鉛筆でその行に○を付けながら見ていったら5000行目か何かに、そのパターンが一文字順番が違うとこがあるのを発見!ε=( ̄<シュタッタSEのとこに行って説明したら「どっへ〜ほんとだ!!」直したら見事にプログラム動き出した。
3.「入力課」から「業務課」に異動させられる。自衛隊がアメリカから買う飛行機のコンピュータシステムの「日本語バージョン」を作る仕事をまかされる(バイトなのに部下をバイトで2人付けてもらう)まだ、国会で審議中なのに??「政治って茶番だな!」と思う。仕事は「作業日程」を作って、営業と入力とプログラマーに「何日の何時何分にはここまで作業を終了してね」と課長だろうが誰だろうが、ハッパをかけねばならないという「板ばさみ」の仕事。納期間に合わないと1億円のペナルティを会社が払う契約なので、必死!!もう、勉強してる時間も無くなった!!
4.その業務が完成した後、富士通の課長さんからお呼びがあり「年に800万で、個室最新パソコン付き、女性バイトの秘書付きで君を雇いたい」と言われる。「あの、プログラムとかは組めませんが??」と言ったら「そういうのは、わが社は一杯いてね!君には別の仕事をやってもらいたい!いそうでいないんだよこのタイプの人材。おそらく日本で一人いるか、いないかという能力。でも、いてくれると、会社はべらぼうに儲かる!」大卒で初任給10万の時代だから25歳としては破格の待遇!「なにをするんでしょう?」「それは、雇用契約に判押さないと言えない」考えた末、まだ「正義の味方の弁護士さん」にあこがれてたので、断る。。「まだまだ、自分の本当の能力が分かってないね!」と課長さんに苦笑される。ん?何だろう(・・)今もって謎??
5.その後、1984〜1985年はゴーストライターの仕事をする。人様の名前で本の原稿を書く。200字詰め1枚150円!しかも、著者の好みの文体で書かねばならない。。月8万稼ぐのやっとで、根を上げる。昔のバンド仲間はみんなマスコミや、CM業界へ就職。。何か取り残されたような。。大学時代の勉強仲間はそれなりに弁護士、税理士、司法書士なんかになって。。何か一人で取り残されたような気分(T T)姉が見かねて「公務員試験でも受ければ〜」といったので「東京都23区の地方公務員試験」を受ける。さすがに「司法試験」と比べるとすっごく「簡単」に感じた。。合格!
6.この頃、書き溜めた詞を売れっ子作詞家の「売野(チェッカーズの歌で当時売れてた)」氏に見せに行く。「アマとしては超一流、プロとしては3流。君くらいで飯食ってるプロもいるよ。俺の弟子にならない?一流のプロにしてやるよ!」と言われる。悩んだけど「どうせ、先生に取られちゃうよ。そんなに甘い世界じゃない」と言われ断る。その後3回くらいは、「決心してこの世界に来い」というお手紙を貰うが、結局「お役人」になることにする。( ̄0 ̄)あーあ!!

★お役人生活・一人ぼっちのちっちゃな行革★

1.まず、2週間の研修。班行動で色んなことやらされたけど、他の研修生は学校出てすぐの若い連中!こちらは年齢制限ギリギリの27才で入ったので、彼らからみたらおじん!結局同期会の幹事に名簿とかセコセコ作る羽目に。。研修で一番しんどかったのは、「港区役所」と大きく入ったシャツを着て、班別に決められたコースを歩いて一周するというオリエンテーリング!しかも、12時〜1時の間に指定された六本木の公園に辿りつかないと弁当がもらえない!!必死こいて、チェックポイント(大体区の施設)まで歩きました(^^;始めは良かったんだけど、そのうち、足が久々に血を噴出して、班の人たちについて行くのがきつくなってきました。「うう、気絶しそうなくらい、いてえ〜」良く晴れた日でした。あらかじめ手配りしてあったと見えて、コースはところどころにお巡りさんが立ってて警備「頑張れ!港区役所〜ヒューヒュー」と応援する人も。。「それどこじゃない!!ア、足が。。」とうとう靴の中が血でいっぱいになって「ぐちゅぐちゅ」音が。そのとき、ふと、太陽に目が行って、「ん?」太陽を臍下丹田に思い浮かべたら。。ズイズイと身体にエネルギーが(・・)痛みも和らいで、他の人と冗談を言いながら歩けるように。。で、無事に研修所に到着。ビリから3番目だけど完走!「おい、おまえらもう一周するか〜!」といったら「勘弁してくれ〜」と五体満足な連中もぐったり。結構きつい研修でした。「足の手当てをせねば。」と研修係長(女性)に消毒薬と包帯下さいと申し出たら、どうしたのか聞かれたので、ポリポリ頭掻いて靴を脱いだら例によって、血まみれの足〜。係長一瞬蒼白になって、しゅたたと走って、一階の保健所へ(保健所の2階が職員研修所になってた)消毒薬と包帯を持ってきてくれて、ポロポロ泣きながら、「こんなひどい状態で歩き続けたなんて。。」としゃがんで、自ら治療してくれましたが、「あの、自分でやりますので。。どもすいません。。」とか恐縮してたけど、係長さん(40代くらい)のしゃがんだ視線がおいらのナニに当たるたび、モコモコと。。コレコレ、おばんに欲情してどうする!!( ̄m ̄)ブブブ
2.研修後、住民戸籍課に配属。窓口ではなく、奥まったとこで住民票を作成(まだ、墨汁で手書きだった!)したり、違法登録者の調査をする担当に。。最初は皆優しかったにゃ。(^ω^)
3.半年後に、組合の職場委員(各課に一人いる一番したっぱの労組役員)にされ、更に先輩を差し置いて「オンライン化のための業務検討委員会の委員に。。ちょっと先輩たちに怪しい雲行きが。。「どーして、ベテランがいるのに新人が〜」ヒソヒソ。これには「港区」のなりたちがありまして、戦前「芝区」「麻布区」「赤坂区」の3つの区が戦後合併してできたのが「港区」でおいらが入った時点でもまだ、職員の中に「芝の奴らめ〜」(芝が本庁になってた)「麻布は未だに独立した区だと思ってる」とか「旧役所の縄張り争い」がある上に、組合が、社会党系、共産党系、更に過激な中核系、革マル系と何分割もされてて、オンライン化(今では当たり前だけど)すると人員削減(実際に住民が区内で移動した場合の住民票やら国保関係の書類をわざわざ、車を出して配送してた)に繋がるということでFAXを入れることすら、反対してる組合だった。(^^;その頃、「成田で爆弾騒ぎ」があると家宅捜索が入ったり、国保の優しいおばちゃんが実は革マルの大物で、重松の友達で、浅間山荘事件のとき内ゲバに嫌気して早めに逃げた経歴の持ち主だったり。。でも、上は部長クラスから、過激派までとにかく誘われれば誰とでも飲む。飲んだら、朝まで生討論!それぞれの考えや、信条の違いはあっても、「これでいいのか地方自治!」という点では「熱い情熱」を持った人たちでした。
そろそろ、波乱含みになってきました。この頃、親父のお下がりの53年型マークUに載ってたけど、高卒の同期たち(可愛い女の子いっぱい!)とゴールデン・ウイークに赤城山に旅行に行って、コーナーでタイヤバースト(筋交い?コの字型の大きな釘が刺さった)一気にタイヤ破裂して、幅1mの側溝のコンクリ蓋を跳ね飛ばしながら、走り溝に落ちて止まる。車左側1/3潰れる!!後から来た地元暴走族が30人くらい、力をあわせて車を出してくれたけど、後輪が外にひんまがり、結局一般道を7時間かけて30kmで曲がったタイヤから煙を出しながら一人で帰るはめに。。6回目の「死にそう」体験!その後、夏にホンダの初代インテグラ(特注で超軽量バージョン。ちょっとアクセル踏んだだけで、その場でホイールスピンするという、ほとんどレース仕様の奴を買うまで車、おあづけ〜(T T)
4.役所に入って、1年目の人事異動時期。大ベテランが入院!(元々透析しながら通勤してる人で病弱)相棒の先輩は他に異動!&ちょっと先輩の女の子(s学会の東京婦人部長という隠れた大物)入院。係長(総評の副書記長の大物)定年退職!にゃんと1年目の小僧であったおいらが、3人分の仕事を、決算期のただでさえ忙しい時期に、一人でこなすことに(他のメンバーは暇だけど役人は「職務権限のない仕事に手を出せない。職濫用になる」ため)(^^;普通は1枚の住民票や書類を手書きで作成するのに3分かかるところを、目の前に時計を置いて、一枚当りコンマ何秒かずつ縮める。。誰が言うともなく「港区役所のセナ」と呼ばれる!! 1ケ月家に帰らず、近くのカプセルホテルに泊まりながら(自腹)朝7時から夜12時まで仕事&飲み会も途中参加!死ぬかと思った。それでも、残業代は月10時間分!年初に議会で課別に残業代も決められているため、残業してもしなくても、自動的に10時間は残業がつく。。。庶務の先輩が「かわいそう」と他の残業してない人の分を一時間ずつ削っておいらに付けたら、「勝手に残業してるだけだ!」と猛反発!(T T)勝手じゃないよ〜。
5.「地獄の一ヶ月」が過ぎたら、他の係の人たちから「この課の親分はおいらにしよう!課長を通さなくても、おいらには話しを通さないと、他の課の要望は拒否する!」という事になって、よその課からの「こんな起案(稟議)を回すけどよろしく」とか全て課長の前においらに話がくるようになった。ん?突然偉くなったぞ?区長(市だと市長にあたる人)までおいらとすれ違う時「はは〜お世話になりますです」と最敬礼!世はバブルの真っ盛りであった。。
6.ソウル五輪前の韓国旅行へ。大学のOB会で6月「韓国にH旅行をしよう!」という不埒な計画が持ち上がり。参加。行ってみたら暴動の真っ最中で、デモ隊の投石はくるは、警官隊の催涙ガス弾は当るは、ほうほうの体で逃げまくる。本当に死ぬとこでしたが、何とか帰国。「7回目の死ぬとこ体験に」。。
7.2年目からいよいよ、組合の「下っ端役員」として、「おいらのちっぽけな行革」が始まる!!当時、港区は人口約17万人、自治省(当時)で定めた「人口100人当り自治体職員1人」という基準からすると1700人の職員が定数のはずなのに、にゃんと3700人の職員数!一般の人は分からないけど、公務員には担当別に「条例」「法律」などで「職務権限」が決められていて、「行政法上」どんなに忙しくても(議会事務局のおばちゃん課長、年に数回しか子供の顔が見られなかった)どんなに暇でも(エアコンの時代に、まだボイラー室という部署があって30人のボイラー技士が勤務してたが、なんと仕事は朝一で役所中のエアコンのスイッチを入れて歩くだけ。後は一日将棋指してるだけ。。メインスイッチは総務にあるので、夜は総務で切っちゃう。。「仕事の生きがい?無いな!!この部署に1年勤めると人間が腐る!行革?やるならやれ!こっちも生殺し状態だよ!」と言われる。)他の「職務権限」の無い部署の仕事に手を出すと「越権行為」になってしまうのです。
8.しかも、「公務員」は「国家公務員法89条」「地方公務員法27条」によって「スト権が無い」見返りとして、「意に反する解雇等」の処分を拒否できます。(もちろん、法令に違反した時&所属部署が廃止された時は解雇できる)
9.で、下っ端の役員として&「オンライン化業務検討委員」として役所の「人員削減」に一人ぼっちで取り組むことに!長年、中小企業の社長として「税金を払うために借金する」親父(まだ生きてたけど)の背中を見て育った、おいらとしては、 この、無駄に使われている税金を払うために、国民はどれくらい苦労してるか知ってくれよ!!(#ーー)という気持ちで一杯だった!!ヒソヒソ(−εー)ヤクニン、シャカイ、ノ、ウラギリモノbutコクミン、ノ、ミカタダッタカモ。。